広島県呉市大長(旧大長村)のミカン栽培は、江戸時代から始まり、明治以降に「温州みかん」中心の一大ブランド地帯に育った歴史を持ちます。
広島文化大百科(https://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=878)
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1.とても古くからあるミカンの里
・大長地域のミカン栽培は、江戸時代から小規模に始まっていたといわれます。
・「大長村の柑橘」の記録によると、現存する老木の年齢から逆算すると、およそ300年前ごろから既に
「小蜜柑(みかん)」が栽培されていたとされています。
・初期は、ごく地方性の高い「平蜜柑(固有種)」などの在来種が、自然に近い形で植えられていた時代
です。
大長みかんに関する史的考察(https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/record/2009991/files/AgriFishEcon-HiroshimaUniv_9_1.pdf)
2.明治に入って「温州みかん」に本格化
・明治初頭、温州の優良種みかんが「美味しい」として知られ、大長でも徐々に温州ミカンの栽培が増え
ていきます。
・1890年代になると、カタチモモ(桃)栽培が盛んだった時期もあるのですが、やがて市場のニーズ変化
や地形・気候との相性から、温州みかんへのシフトが進みます。
広島文化大百科(https://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=878)
3.「青江早生」の導入と「大長みかん」の誕生
・1903年(明治36年)、村長らが大分県の青江(現・宇佐市)を視察し、「青江早生(早生温州みか
ん)」の穂木を大長へ導入。
これが、後の「青江完熟みかん」や「大長みかん」のベース品種になります。
この品種は、早生・大粒・色づきが良く、糖度が高いため、大長の気候に合って全省に広まり、大長が
「広島ミカンの中心」になっていきます。
・JA広島ゆたか「黄金の島」(https://www.mikan-island.com/static/fruit/index.html)
・Shima Project Web.(https://www.shimaproject.jp/Report14-Ohsaki_Ouchou.html)
4.大正・昭和にかけての発展
・明治末~大正期には、みかんを国内だけでなく、朝鮮・満州に向けても出荷するようになり、ビジネス
規模が拡大します。
・大長は、山が海に迫る急斜面地で、先人たちが石垣を積み、段々畑を拡げてみかん栽培を維持してきた
ことでも知られます。
この「段々畑みかん」は、「耕して天に至る」と呼ばれるほど高度な斜面耕作です。
・1950年代以降も、温州みかんの出荷量が広島県でトップクラスとなり、「大長みかん」で広く知られる
ブランドになりまた。
・大長プロジェクト(https://ohchoproject.com/about)
・A広島ゆたか「黄金の島」(https://www.mikan-island.com/static/fruit/index.html)
・Shima Project Web.(https://www.shimaproject.jp/Report14-Ohsaki_Ouchou.html)
【大長みかんとレモン発祥の軌跡】

1901年(明治34年)当時の大崎下島の村長秋光八郎が、「何とかして、島を昔のように豊かにして、農民たちも、楽な暮らしができるようにしたいものだ。」と、常に考えていたところ、本土に出張するたびに八百屋を覗いていました。
神戸に出張したときにも八百屋や果物やを覗きながら歩いていると、異人さん(外国人)が買い物をしている果物屋に行ったとき、円錐形の黄色いみかんのようなものを買いました。
値段もずっと高かったそうです。
そこで秋光さんは、「このみかんをうちの島でも作ってみたらいいな。桃づくりよりうんと儲かるぞ。」と考えたのだそうです。
果物屋で「この黄色のみかんは何というみかんだね?」と聞いたところ「レモン」という名前だと知りました。
色々と聞いていると、レモンは日本では作っていないとのこと。
「レモンは日本の気候に合わないかもしれない」と思ったが、大崎下島出身の神戸の中学校で教師をしている人を思い出し、相談してみると、その先生が調べたところ、
「レモンは寒さに弱いのであったかいところでないと栽培は難しい」とのこと。
しかし「大崎下島は、広島県ではあるが、愛媛県の島といってもいいところに位置していて、九州に負けないほど、あったかい島だから、レモンができないことはないでしょう。」
と言われて、島では1、2といわれる山畑を持っている石田只一、秋光伊織両名を呼んでレモンづくりを一緒にやろうと誘いました。
その夜、両名はほかに末岡伍作、大道好左衛門、大島慶造、宇津森百太郎、多武保正太郎之5人を連れて村長のうちに行きました。
後に、この青年たちは《島おこし7人衆》と言われるようになるのだそうです。
しかし、販路を考えると、レモンの方が狭すぎるので、ミカンの方が売りやすいのではないかという、ミカンとレモンの派閥ができ、
打開策として二手に分かれて、将来を見込んだ「レモン派」と、作ったらすぐに売れそうな「みかん派」に分かれて島への導入策を考え始めたのだそうです。
1901年10月、秋光村長が大分に出張したときに、関西地方ではよく知れているみかんの産地津久見の隣の「青江の里」の川野仲次という人の家に、早生で、しかも味の良いみかんがあると聞き、伺ってみると、話に聞いた通り、ほかのみかんはまだ青々としているのに、その10本だけが金色に色づいていたそうです。
そのみかんを食べてみると、甘みが強くて、美味いみかんだったそうです。
「これは何というみかんですか?」と尋ねると、突然変異でできたみかんなので名前がないということでした。
また、樹を増やす計画もないとのことで、一枝分けてもらったのです。
そのみかんの実がついた枝を7人の青年にみせ、末岡、秋光両氏が川野さんのところへ出向き50本、次の年には150本の穂木を分けてもらって、川野さんのことをいつまでも忘れないために、川野さんの里である青江にちなんで「青江みかん」と名付けて栽培したのです。
接ぎ木をして、5年後には200本の元木から、たくさんの青江ミカンの苗ができました。
7人の青年たちは農家を一軒一軒、収入源である桃づくりから、先の見えないみかん作りの説得に回ったのです。
ついに6年目にしてようやく青江ミカンの収穫があり、7人衆の分を集めるとかなりの量になったのです。
まだ、どの市場からも、色づいたみかんが出ていない時に、美しく実った青江みかんを広島の市場に持ち込むと、初物として驚くほど、高値で取引されたのです。
並行して、日本産のレモンも広島市場に出たのも初めてで、レモンも高い値段で売れたのです。
このことが島中の評判になり、島の人たちは、競ってレモンと青江ミカンを植え始めたのです。
後に青江ミカンは「広島みかん」という名前で、関西から中国にかけての市場を押さえ、紀州みかんと肩を並べるほどの天下に知られる産地となるのです。
この小さな島が、広島みかんの発祥の地であり、これが「黄金の島」と言われるようになった所以です。
1924年(大正13年)ごろから、1940年(昭和15年)にかけて、日本産のレモンの8割は、この大崎下島のものであったのです。
※椋鳩十の離島ものがたり1「黄金の島」 椋鳩十著 ポプラ社 より抜粋
5.今の大長・みかんメッセージ館
・2005年に大長が呉市に編入されましたが、「みかんメッセージ館」などで、豊町・大長のみかん栽培の歴史や
努力が展示され、後世へと伝えられています。
・大長は、「みかんとレモンを両立させる柑橘王国」として、「大長みかん」ブランドを守り続けている地域で
す。
つまり、「江戸時代から始まり、明治で温州みかんへ本格転換、『青江早生』導入でブランド化し、山斜面を耕
してまで守り抜いたミカンの里」という歴史が、呉市大長のミカン栽培の正体です。
・JA広島ゆたか「黄金の島」(https://www.mikan-island.com/static/fruit/index.html)
・みかんメッセージ館(https://lemonfarm.jp/ohcho_message_museum.html)
【国内でのレモン栽培を最初に始めたのは?】
日本国内で最初にレモン栽培が始まった地域は、広島県呉市豊町大長(旧・大長村)とされます。
・1898年(明治31年)に、和歌山から購入したネーブルの苗木に混ざっていたレモン苗木を試植したのが始
まりとされています。
・その後、瀬戸内の温暖な気候に適して広まり、のちに瀬戸田地域が国産レモンの代表産地として発展しま
した。
株式会社サイレンサー(https://store.silencer.inc/blogs/information/history-lemon)
◆「なぜ広島がレモンの産地になったのか」
日本国内でレモン栽培が本格的に始まったのは、広島県・大長地区(現・広島県呉市豊町大長)です。
この地域が「日本初のレモン栽培地」といわれています。
・1898年(明治31年)、大長村が和歌山からネーブルの苗木を購入した際、その中に偶然混ざっていたレモ
ン苗木を3本試植したことが、国内レモン栽培の始まりとされています。
・瀬戸内海沿岸の「温暖で雨が少なく、海風で霜が少ない」気候が、冬に寒さに弱いレモンの生育にぴった
りだったため、徐々に栽培が広がっていきました。
・広島県公式ホームページ(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kazyuyasaikaki/setoushihiroshimalemon.html)
・store.silencer(https://store.silencer.inc/blogs/information/history-lemon)
・広島ラボ:(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/lab/topics/20211228/01/)
◆その後の広がり
・大長地区を起点に、尾道市瀬戸田や大崎上島などの島しょ部へレモン栽培が広がり、昭和初期には広島県
が「全国有数のレモン産地」になっていきます。
・特に瀬戸内海沿岸の農家は、もともと柑橘(ミカンなど)の栽培技術が高かったため、その土壌や技術を
活かしてレモンもうまく育てることができたことも、広島がレモンの街になった背景です。
株式会社 けやき出版HP(https://baaall.tokyo/works/project-story-4/)
◆今の広島レモン
・広島県は、国産レモンの生産量が全国1位で、国産レモンシェアの約半分を占める「レモン王国」です。
・地名に「瀬戸内・広島レモン」というブランド名をつけて、レモン飲料や加工品、観光まで含めた地域ブラン
ドとして、広島がレモンで知られるようになった流れがあります。
・JA広島果実連株式会社(https://www.hiroshima-ouen.com/194)
・広島県公式ホームページ(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kazyuyasaikaki/setoushihiroshimalemon.html)
◆なぜ広島がレモンの産地になったのか
広島が「レモンの産地」になったのは、「環境(気候・地形)+偶然の歴史+農業のノウハウ」がうまく
重なったからです。
①瀬戸内の気候がレモンにぴったり
広島県の瀬戸内沿岸(特に島しょ部)は、
冬の寒さがそれほどなく、雨が少なく、霜も少なく、しかも日照時間が長く、乾燥しやすい。
という条件が、レモンにありがちな「寒さ・湿気」への弱さをうまく避けられる場所でした。
また、海風が海から吹き込むため、病気になりやすい高湿を防ぐ効果もあり、柑橘類全般が育てやすい
環境でした。
・広島県公式ホームページ(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kazyuyasaikaki/setoushihiroshimalemon.html)
②「日本初のレモン栽培」が広島で始まっていた
1898年(明治31年)、呉市豊町大長地区で、ネーブルの苗木に混じっていたレモン苗木を偶然試植。
これが日本国内で本格的なレモン栽培の始まりとされています。
・広島県公式ホームページ:(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kazyuyasaikaki/setoushihiroshimalemon.html)
ここを起点に、尾道市瀬戸田や大崎上島など周辺の島々へレモン栽培が広がり、昭和には広島県が全国
でも屈指のレモン産地になっていきました。
③柑橘栽培の「土壌・技術」がすでに整っていた
広島県は、ミカンや温州ミカンなど、柑橘類の栽培が古くから盛んでした。
すでに柑橘栽培のノウハウ(剪定、土壌、病害虫対策)があり、柑橘栽培に詳しい農家がレモンにも適
応しやすかったため、栽培技術が早く定着しました。
・ひろしまラボ(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/lab/topics/20211228/01/)
④レモンが地域ブランド化していった
その後、「瀬戸内・広島レモン」というブランド名で統一され、品質基準や安心・安全・低農薬なども
重視して売り出すようになり、「広島=レモン」のイメージが全国に広がりました。
・広島県公式ホームページ:(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kazyuyasaikaki/setoushihiroshimalemon.html)
観光や加工品(レモン果汁、レモン酒、レモン菓子など)も含めたビジネスモデルが整い、「レモンの
町・島」として、島全体がレモンで賑わうようになっています。
まとめると、「偶然のレモン試植+瀬戸内の気候+柑橘栽培の技術+ブランド化戦略」が揃ったから、
広島が「レモンの産地」として全国を代表するようになった、という流れです。
【日本初「みかんの缶詰」発祥の地】
みかんの缶詰の「発祥の地」として広く認知されているのは、広島県の大長みかん産地である呉市の大崎下島
(大長地区)です。
1.なぜ広島県の大崎下島が発祥の地とされるか
・明治末から大正にかけて、広島県は「缶詰王国」と呼ばれるほど、缶詰工業が盛んな地域でした。
昭和2年(1927年)ごろ、広島県内で「剥き身のみかんの缶詰」が世界で初めて商品化され、その工場
は大崎下島の大長みかん産地に近い工場群の中から生まれたとされています。
それまでは「外皮を付けたままの甘煮みかん」程度でしたが、皮を剥いて実をむき身にし、シロップに
漬けた「現代みかん缶詰の原型」は、広島の製法として広まったのです。
・『フルーツひろしま「八朔巡礼物語り」 (https://hassakuarchives.com/yukari/img/fruits_hiroshima11.pdf)
【みかん缶詰発祥の軌跡】

じょうのう(みかんの房の袋)のないみかんの缶詰は、1928年(昭和3年)に大崎下島で初めてできました。
みかんの缶詰の製法を発明した方は、1886年(明治19年)に大崎下島の大長で5人兄弟の長男として生まれた「加島正人」氏です。
正人氏が24歳の秋、父の手伝いで、昔からの得意先にみかんを届けに行ったときに、食事をいただき、季節外れのエンドウの混ぜご飯を出され、珍しく思いながら食べてみると、生エンドウと変わらない味に驚き、当時日本では見かけなかった缶詰であることを聞き、さらに驚いたようです。
下島はみかんの産地でもあり、ミカンの缶詰には興味があり、これが缶詰に携わるきっかけとなりました。
最初は、さやえんどうの缶詰づくりをしてみましたが知識不足のために、科学の本を読んでみたり、静岡の缶詰工場で働き、中学校の先生に科学の手ほどきを受け、何とか一人で科学の本を読めるようになり、知識を蓄えていきました。
缶詰工場に勤めているときに、ミカンの缶詰を作る会社があると聞き、買ってみたのですが、当時のみかんの缶詰は、皮のままを缶詰にしたもので、渋く、とても食べられるようなものではなかったそうです。
そこで、ミカンの中身だけを缶詰にしたものはないかと色々と探し回ったけど、どこのそのような缶詰がないことが分かり、「しめた!」と思い、缶詰工場で働いた3年間で、缶詰づくりの手順や方法を頭に叩き込みました。
そうして缶詰工場を3年務めて大崎下島に帰り、試行錯誤の上、1928年(昭和3年)についにみかんの房の袋(じょうのう)のないみかんの缶詰ができたのです。
※椋鳩十の離島ものがたり1「黄金の島」 椋鳩十著 ポプラ社 より抜粋
2.広島がみかん缶詰発祥地となった理由
広島が「みかんの缶詰発祥地」と呼ばれるようになったのは、「広島の農業環境・産業基盤・技術革新」
がちょうど揃ったタイミングだったからです。
①新鮮な大長みかんが大量にあった
広島県の大長みかん産地(大崎下島)は、高品質の温州みかんが大量に生産される地域でした。
そのため、「傷や規格外になってしまったミカン」も一定数出る状態で、それらを「捨てずに高く売れ
る商品に変える」加工品のニーズが自然に高まりました。
②触覚と試行錯誤で「剥き身みかん缶」の技術を確立
1927年(昭和2年)ごろ、広島県で「アルカリ液による内果皮剥離法」が開発され、皮を完全に剥いた
“むき身のみかん缶詰が世界で初めて商品化されました。
これは、「手でムキ身を剥く」以外の方法として、内果皮をアルカリ液で溶かす技術で、みかんの缶詰
を大量かつ安定して製造できる画期的な技術でした。
③広島は「缶詰王国」だった
そもそも、広島県は大正~昭和時代に「日本の缶詰王国」と呼ばれるほど、イワシ・シシャモ・サケ・
ミカンなど、缶詰工場が集中していた産業地域でした。
みかん缶詰は、すでに発達していた「缶詰加工・輸出体制」の上に、新たな技術を加えたことで、日本
だけでなく海外(欧米など)へも輸出される輸出品となりました。
『フルーツひろしま「八朔巡礼物語り」』(https://hassakuarchives.com/yukari/img/fruits_hiroshima11.pdf)
④経済的な理由
・当時の政府は「缶詰」を輸出産業として推奨しており、青果物の代わりに高価な加工品として輸出す
ることで、外貨獲得や経済成長につながると考えていました。
広島は、質の高いミカン+加工技術+輸出志向が揃っていたため、「みかんの缶詰を発祥させ、世界
へ輸出する」場所に最適だったのです。
Linked in 瀧田 圭樹さんの投稿より(https://jp.linkedin.com/)
3.結論
広島が「みかんの缶詰発祥地」になった理由は、
・柑橘・ミカンの名産地として十分な素材が存在した
・剥き身みかん缶を可能にする技術革新が広島で生まれた
・既に「缶詰王国」としての産業基盤が整っていた
これらの条件が、1927年ごろの広島で重なったため、「世界初・商品化されたみかん缶詰」として広島が
その発祥地と呼ばれるようになったのです。
4.補足:日本の缶詰産業の文脈
日本で最初の缶詰は、長崎で作られたイワシの油漬け缶といわれていますが、「みかんの缶詰」が世界で
最初に商品として製造・販売されたのは、広島県の大長・大崎下島を中心としているとされています。
広島はその後、ミカン缶詰の主要生産地として、日本だけでなくスペインや中国など世界の産業にも影響
を与える製法を確立しました。
つまり、「みかんの缶詰」の発祥の地は、昭和初期に「剥き身みかん缶詰」を世界で初めて商品化した『広島
県の大長みかん産地・大崎下島』と覚えていただければ幸いです。
・日本缶詰協会公式HP
(https://www.seikan-kyoukai.org/canning.html:「昭和初期(1926年~1945年)」)・『フルーツひろしま「八朔巡礼物語り」
(https://hassaku-archives.com/yukari/img/fruits_hiroshima11.pdf)
【参考サイト(閲覧日:2026年4月1日)・文献一覧:】
・広島大学文学部:大長みかんに関する史的考察(https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/record/2009991/files/AgriFishEcon-HiroshimaUniv_9_1.pdf)
・広島文化大百科(https://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=878)
・JA広島ゆたか「黄金の島」(https://www.mikan-island.com/static/fruit/index.html)
・Shima Project Web.(https://www.shimaproject.jp/Report14-Ohsaki_Ouchou.html)
・大長プロジェクト(https://ohchoproject.com/about)
・株式会社サイレンサー(https://store.silencer.inc/blogs/information/history-lemon)
・広島県公式ホームページ(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kazyuyasaikaki/setoushihiroshimalemon.html)
・ひろしまラボ(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/lab/topics/20211228/01/)
・株式会社 けやき出版HP(https://baaall.tokyo/works/project-story-4/)
・JA広島果実連株式会社(https://www.hiroshima-ouen.com/194)
・RCC NEWS DIG Powered by JNN(https://www.youtube.com/watch?v=eiBVgnjYPYA)
・『フルーツひろしま「八朔巡礼物語り」
(https://hassaku-archives.com/yukari/img/fruits_hiroshima11.pdf)
・文・トーク(https://note.com/bold_skink7262/n/nfc1aa3d5d4f2)
・(https://www.jca-can.or.jp/80th/jca_80th_fukkoku.pdf)
・Linked in 瀧田 圭樹さんの投稿より(https://jp.linkedin.com/)
・日本缶詰協会公式HP(https://www.seikan-kyoukai.org/canning.html:「昭和初期(1926年~1945年)」)
・中国新聞公式HP(https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/724782)